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江戸時代の海外旅行とは? - 福沢諭吉「福翁自伝(ふくおうじでん)」より(簡単!新解釈byバンビ)

皆様、こんにちは!元CAのバンビです。

先日、福沢諭吉の自叙伝「福翁自伝(ふくおうじでん)」という本を読みました。

昔の話で漢字が多くて難しいなと思いながらも、船に乗って外国に行くくだりなどは、ワクワクしながら読んじゃいました!

新型コロナのせいで海外旅行に行けない今だからこそ、もっと行けなかった時代の海外旅行の様子がとても興味深かったので、今日はバンビ解釈で「福翁自伝」の一部を紹介します♪♪

 

※なお福沢諭吉は、幕府の使節として渡航しているので、厳密には「海外旅行」ではありませんが、動機は「海外をこの目で見たい!」という紛れもない好奇心でした。
 

江戸時代の海外旅行 - 福沢諭吉「福翁自伝(ふくおうじでん)」より

福沢諭吉「福翁自伝」ふくおうじでん 解説&新現代語訳



By 福沢研究センター  Public Domain, Link

  

本を読んだ感想として、第一に思うのは…
福沢諭吉は「ぶっ飛んでる人」の一言です。

 

諭吉、始めて亜米利加に渡る

ネットもガイドブックもなかった時代の海外旅行はまさに命がけ。
時はまだ江戸時代。
1859年(安政6年)、福沢諭吉25歳の出来事です。

幕府海軍の軍艦「咸臨丸(かんりんまる)」が、サンフランシスコに行くという噂を聞きつけた諭吉は、どうにか一緒に連れていってもらえないものかと知り合いのツテを頼って、咸臨丸の艦長・木村に会いに行き、アメリカ行きを懇願します。

すると…

「自分から行きたいなんて変なヤツ」とあっさりOK!

と言うのも、ほんの数年前まで鎖国をしていた日本にとっては、外国なんて宇宙みたいなもの。
「海外旅行」なんて、恐ろしく命がけのことで、木村艦長(海軍の上官)の家来でさえも行きたい人なんて居なかったのだ。

 

その時の世態せたい人情において、外国航海など云えば、開闢かいびゃく以来の珍事と云おうか、むしろ恐ろしい命掛いのちがけの事で、木村は勿論もちろん軍艦奉行であるから家来はある、あるけれどもその家来と云う者も余り行く気はない所に、仮初かりそめにも自分からすすんで行きたいと云うのであるから、実は彼方あっちでも妙なやつだ、さいわいと云うくらいなことであったろうと思う。すぐに許されて私は御供をすることになった。

引用:福澤諭吉 福翁自伝 福翁自伝

 

翌1860年(万延元年)咸臨丸は品川から出航し37日間を経て、サンフランシスコに到着します。
航海は嵐の連続で大変だったようです。
一緒に乗船していた勝海舟に関しては「終始船酔いで病人みたいだった」と、若干ディスってます。
 

航海は嵐の連続で37日間中、晴れたのはたったの4,5日だけ。
船体は右に左に大きく傾き船内はびちょびちょ。

それでも少しも怖いとは思わなかったゼ。
「どうってことない。牢屋に入って毎日大地震に遭っていると思えばいいじゃないか」とやり過ごした。(牢屋に入ったことはマダないけど)

船が傾くので、落ち着いてご飯を食べられる状態ではなかったけど、浦賀のキャバクラで盗んだ茶碗がめちゃ役にたった。
でも後から知ったことだけど、キャバクラじゃなく風俗だったみたいで、あの茶碗は女の子がうがいに使う茶碗だったらしい。それを思うと汚いが、航海中の宝物であったから笑える。

 

れは何の事はない、生れてからマダ試みたことはないが、牢屋に這入はいって毎日毎夜おお地震にあって居ると思えばいじゃないかとわらって居るくらいな事で、船が沈もうと云うことは一寸とも思わない。と云うのは私が西洋を信ずるのねんが骨に徹して居たものと見えて、一寸ちょいとも怖いとおもったことがない。

引用:福澤諭吉 福翁自伝 福翁自伝 

 

サンフランシスコにて。

ホテルには、フカフカの絨毯(じゅうたん)が敷き詰められていた。
日本で言えば、ちょーお金持ちの人が数センチ単位でお金を払って、せいぜいタバコケースに使うくらいの高級な布で、これを8畳~10畳もある広い部屋に敷き詰めているのだから驚きだ。
しかも、アメリカ人はその絨毯の上を靴のままで颯爽と歩く。こっちも負けじと草履(ぞうり)のまま上がってやった。

 

ソレでホテルに案内されていって見ると、絨氈じゅうたん敷詰しきつめてあるその絨氈はどんな物かと云うと、ず日本で云えば余程の贅沢者ぜいたくもの一寸いっすん四方幾干いくらいって金を出して買うて、紙入かみいれにするとか莨入たばこいれにするとか云うようなソンナ珍らしい品物を、八畳も十畳も恐ろしい広い処に敷詰めてあって、その上を靴で歩くとは、扨々さてさて途方もない事だと実に驚いた。けれども亜米利加アメリカ人が往来を歩いた靴のまま颯々さっさつあがるから此方こっちも麻裏草履でその上にあがった。

引用:福澤諭吉 福翁自伝 福翁自伝 

 

 

 

女尊男卑の風俗に驚
(レディーファーストの風習にびっくり!)


さらに馬車や、グラスの中の氷、レディーファーストの風習など、当時の日本人にとっては初めての事ばかりで、相当なカルチャーショックを味わい、借りて来た猫のように縮こまってしまう自分に、諭吉本人も笑ってしまいます。 

 

諭吉一行(というか使節団一行)は、サンフランシスコからの帰りにハワイにも寄っています。

 

布哇寄港(ハワイ寄港)


昔なので仕方ないのですが、ハワイアンの描写については、今書けばバリバリ差別用語みたいな言葉で綴られています。(ヒドイのでここには書きません)

 

帰りの乗組員は日本人ばかりで、ハワイがどこにあるか分からず、どうにかこうにかハワイを探し出し、そこに3,4日滞在した

ハワイでは国王夫妻に会った。国王は、織物の服を来ているということぐらいで、家も中くらいの西洋造りの家で、宝物を見せてくれると言うから何かと思ったら、鳥の羽で作った敷物を持って来て、これが一番のお宝だと言う。

 

本当の日本人ばかりで、どうやらうやら布哇を捜出さがしだして、其処そこへ寄港して三、四日逗留した。 ~中略~ 夫婦づれで出て来て、国王はただ羅紗ラシャの服を着て居ると云うくらいな事、家も日本で云えば中位ちゅうぐらいの西洋造り、宝物たからものを見せると云うから何かとおもったら、鳥の羽でこしらえた敷物しきものもって来て、れが一番のお宝物だと云う。

引用:福澤諭吉 福翁自伝 福翁自伝 

 

GPSもない時代に海を航海して「ハワイを探し出す」とか、どうやったんでしょうね!?
国王のくだりを読んで、ふと「ハワイの国王ってカメハメハ?」という疑問が湧いてきました。

House of Kamehameha (restored).jpg
By Hugo Stangenwald - Bernice P. Bishop Museum, Public Domain, Link

 

Wikiを見ると…カメハメハの時代が1795~1893まで続いているので、向こうが「国王」と言ってるのが本当なら、福沢諭吉は、なんと、あの「南の島の大王は〜♪」のカメハメハ大王夫妻に会ったと思われます!
(おそらくカメハメハ4世)

参考: https://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Kamehameha

 

 

ハワイから帰る途中で、諭吉はおもむろに懐から1枚の写真を取り出して、船の仲間達に見せびらかします。

そこには諭吉とアメリカ人の若い女性が写っています。
*福沢諭吉は、日本人で初めてツーショットを撮ったと言われています。

Fukuzawa Yukichi with the girl of the photo studio.jpg
By ウィリアム・シュー - 慶應義塾大学福沢センター所蔵品。, Public Domain, Link

 


(船の仲間たちに)お前たちは、シスコで女性と親しく並んで写真を撮ったり出来なかっただろう?いつも口ばかりで、さあ、どうだ!俺の写真を見ろ!と冷やかしてやった。

(実は、この女性は親しくなった訳ではない。しかも女性と言っても、写真屋さんの15歳の娘でお願いして一緒に撮ってもらったんだよね〜)

若い士官たちは悔しがったけど、今さら何も出来ないだろう。

シスコにいる間に言うと真似する人が出てくるから、わざと黙っておいて、いよいよハワイも離れて、アメリカの「ア」の字も消えかかった頃に見せびらかしてやったゼ。

 

なんとも辛辣ですが、ユーモアのセンスもあり、福沢諭吉の人間味が垣間見れるエピソードの一つです。

 

お前達は桑港サンフランシスコに長く逗留して居たが、婦人と親しく相並あいならんで写真をるなぞと云うことは出末なかったろう、サアどうだ、朝夕あさゆう口でばかりくだらない事をいって居るが、実行しなければ話にならないじゃないかと、おおいひやかしてやった。~中略~ この写真を見せた所が、船中の若い士官達は大に驚いたけれども、口惜くやしくも出来なかろう、と云うのは桑港でこの事を云出いいだすとすぐ真似まねをする者があるからだまって隠しておいて、いよ/\布哇を雛れてもう亜米利加にも何処どこにも縁のないと云う時に見せてやって、一時のたわぶれに人を冷かしたことがある。

引用:福澤諭吉 福翁自伝 福翁自伝 

 

 

 

欧羅巴各国に行く(ヨーロッパ)

 

翌年、文久元年の暮れ(1861年12月)、諭吉はグレードアップして、正式に幕府の使節団の一員としてお金をもらってヨーロッパに行きます。
約一年間の外遊を経て、日本に帰ってきたのは翌年、文久二年の暮れも押し迫ったころでした。

 

イギリスから迎えに来てくれた軍艦に乗り、ヨーロッパに行くことになった。
香港、シンガポールなどのインド洋の港に立ち寄り、紅海に入り、スエズ運河から上陸。
そこからは陸路でエジプトのカイロに2泊→地中海に出て再び船に乗り、フランスのマルセイユ→汽車でリオンに行き1泊、パリに約20日滞在し、使節の仕事をした。
その後は、パリ→イギリス→オランダ→普魯西(プロセイン?)の首都ベルリン→ロシアのペートルスボルグ→再びパリ→船でポルトガル→再び地中海から元通りの順路で帰国。

それから欧羅巴に行くと云うことになって、船の出発したのは文久元年十二月の事であった。このたびの船は日本の使節がくと云うめに、英吉利イギリスから迎船むかいぶねのようにして来たオーヂンと云う軍艦で、その軍艦にのっ香港ホンコン新嘉堡シンガポールと云うような印度インド洋の港々みなとみなとに立寄り、紅海に這入はいって、蘇士スエズから上陸して蒸気車に乗て、埃及エジプトのカイロ府につい二晩ふたばんばかり泊り、それから地中海に出て、其処そこから又船に乗て仏蘭西フランス馬塞耳マルセイユ、ソコデ蒸汽車に乗て里昂リオンに一泊、巴里パリに着て滞在およそ二十日、使節の事を終り、巴里を去て英吉利イギリスに渡り、英吉利から和蘭オランダ、和蘭から普魯西プロスの都の伯林ベルリンに行き、伯林から露西亜ロシアのペートルスボルグ、れから再び巴里にかえって来て、仏蘭西から船にのって、葡萄牙ポルトガルに行き、ソレカラ地中海に這入はいって、元の通りの順路をて帰て来たその間の年月はおよそ一箇年、すなわち文久二年一杯、推詰おしつまってから日本に帰て来ました。

引用:福澤諭吉 福翁自伝 福翁自伝

 

 

巴里、竜動を闊歩
(パリ、ロンドンをかっぽ)

パリでは、三十数人の大所帯なので宿泊はどうなるのか?と案じている一向に対して、パリの案内人は、それなら一軒の旅館に十組〜二十組泊まれる、と言うのを聞いて、最初は意味がわからなかったようです。

 

案内に連れられて泊まったのは、パリの王宮の門外にある「ホテルデロウブル」
5階建、600室、スタッフ500人、客1000人以上の広大な旅館。
こんなに広いと、日本の使節なんて何処にいるのかわからない。

廊下で迷子にならないように、しばらくはそれが心配だった。

 

ソレカラ案内につれられて止宿した旅館は、巴里パリの王宮の門外にあるホテルデロウブルと云う広大な家で、五階造り六百室、婢僕ひぼく五百余人、旅客は千人以上差支さしつかえなしと云うので、日本の使節などは何処どこに居るやら分らぬ。ただ旅館中の廊下の道に迷わぬように、当分はソレガ心配でした。

引用:福澤諭吉 福翁自伝 福翁自伝 

 

 

泊まった旅館は、王宮の門外にある「ホテルデロウブル」??
もしかして…
ロウブル=ルーブル?

 

そうなんです!
福沢諭吉御一行様が宿泊したのは
ルーブル美術館(王宮)の門外にある「Hotel du Louvre」(オテル・ドゥ・ルーブル)

↓↓ここです!今もなお、高級ホテルとしてそびえ立っています♪

 

photo : https://hotels.his-j.com/HotelDetail/PAR00088.aspx

 

パリでは、国立自然史博物館を訪れていたようです。

FukuzawaYukichi.jpg
Muséum national d'histoire naturelle in Paris., Public Domain, Link
Fukuzawa Yukichi. Photograph taken during his trip to Paris in 1862.
(フランス国立自然史博物館にて撮影 by Wikipedia

 

ヨーロッパ外遊では、仲間がシガー(タバコ)とシュガーを間違えて買っちゃったり、ホテルのトイレを日本式に使っちゃったり…失敗のエピソードも綴られています。

え?と驚くようなこともあれば、150年以上前の出来事なのに「海外」という枠では共感することもあったりして、日本ってやっぱり島国なんだなぁ〜って思ったり。

今のこのコロナの時代にもし福沢諭吉が生きていたら、どんなことをしたのかなぁ〜と思いを馳せてみたり。

とにかく、
福沢諭吉、最先端を行く人だわ〜
一万円札だし、慶應大学の創始者だし、なんか凄い人だし、かなりの人格者なのかと思っていたけど、全然そんなことなくて、むしろ、変人で人間味があって好きになりました。

あ、¥諭吉はもともと好きよん♡

 

書評 

この本は、福沢諭吉が記者からインタビューを受け、記者がまとめた内容を諭吉本人が再び推敲・加筆する形式で書かれています。

なお、記事で紹介した「海外旅行」の部分はほんの一部です。
幼少期の諭吉少年〜幕末、明治〜慶應義塾のことや勉強のことなどなど…
勉学に対する姿勢は相当だなと思う反面、最近のおバカYoutuberに通じるような「〇〇してみたー!」みたいな変なこともたくさんしてたり。
全体を通して話し口調なので、時おり垣間見える人間性が非常に興味深いです。

おすすめ度 ★★★★★★MAX 

記事の中の引用はすべて「青空文庫」からですが、私が実際に読んだのは現代語訳バージョンで、原文のものよりもかなり読みやすかったです。